地図から読むミラノの歴史 〜ミラノにもコロッセオは存在した〜

こんにちは、あいか(@aikanium)です。

さっきツイッターにも書いたのですがミラノはひさしぶりの雨です。
日本からミラノに帰ってきたのが10月6日で、帰ってきてから初めての雨!!

夜は友人と出かけるのですが日中は家で大人しくしていようか、それとも今日は美術館がフリーDayだから午後にどこかへ繰り出そうか…迷い中。

とりあえず、午前中は更新したかった記事を書いていきます。

ミラノの地図から見える街の発展の歴史

ミラノに一度でも訪れたことがある人は街中の道が蜘蛛の巣上に張り巡らされていてとてもややこしい形状になっていることはご存知だと思います。
そのせいで私なんてここに10年住んでて未だに迷いまくってますよ!!学生の時アテンドのバイトで何度お客さんと路頭に迷ったことか!!(え。)

ではなぜこんな複雑な形になっているのか。それはミラノの発展の歴史に関係しています。
今日は歴史とともにミラノの地理を紹介という真面目な記事を書いていきます。初めに書いておきますが、長くなりますよw

紀元前400年:ミラノの起源

紀元前400年に様々な民族が集まり形成されたのがミラノの起源。
当時はミラノではなく「メディオラヌム」と呼ばれ、紀元前222年、ローマ帝国の支配下に置かれたあともその名が続きました。メディオラヌム(Mediolanum)はラテン語で「平原の真中」という意味。
これがローマ時代のミラノ。
Mediolanum_romana
左下に丸いものがありますよね。当時はこんなものがあったらしいです。Anfiteatroと呼ばれるロマーノ円形闘技場。
anfiteatro_romano_milano
この時代、ミラノにもローマのような超巨大コロッセオが存在し、その一部が今もミラノに遺跡として残っています。
Mediolanum_romana2
これだとイメージつきやすいかも↓
Anfiteatro-Romano-Milano

4世紀:西ローマ帝国の首都に

ローマ帝国のもとで繁栄し、4世紀、司教アンブロジウス(ミラノで1番古い聖堂、サンタンブロージョ教会に祀られている。)と皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国の首都となりました。
その後、幾度にも渡る略奪と破壊を繰り返しましたが、8世紀末ごろに再び繁栄し始めました。

これがミラノ最古のサンタンブロージョ教会
chiesa-di-s-ambrogio-milano-575x380
ちなみに、私はこの教会の隣の高校に通っており、イタリアに来て最初の4年間を過ごした家もここから徒歩1分のところだったのでミラノの中でも思い出深いとても大切な場所です。
インタビュー記事 vol.4の撮影もここでやりました。

数年前、この教会の近くに駐車場を建設しようと工事を始めたら
ローマ帝国時代の遺跡がボコボコと出てきて中止になっていた時期もあったりしました。

11世紀:独立と繁栄

中世には東ゴート王国、東ローマ帝国、ランゴバルド王国の時代を過ぎ、11世紀には下層の封建貴族たちがミラノを富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と神聖ローマ帝国からの独立を果たしました。
地図からも繁栄し、街をとりかこむ壁が広がっているのがわかります。
milano中世
これらの壁は1171年にでき、壁に沿って堀とティチーノ川と街を結ぶナヴィリオ運河がつくられました。中世の壁は今でもミラノ市内にいくつも残っています。
こんな感じで。
portamedievale
ただ運河はとっくに埋め立てられているので今ではそこに水路があったなんて想像もつきません。しかし美術館Gallerie d’Italiaには運河の流れていた時代のミラノの風景画がたくさんあったりしてすごく興味深いです。

14世紀末:ミラノのシンボルDuomoの建設スタート

ミラノのシンボルDuomo(ドゥオモ=大聖堂)の建設がはじまったのは1386年。
MILANOduomo1386
当時のミラノの領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求により、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に建てられました。
そして約500年後の1813年に完成し、19世紀を通じて、尖塔と全ての装飾が仕上げられました。
big_duomo-di-milano

15世紀〜16世紀:スフォルツァ家時代

中世後期とルネサンス時代にはミラノはヴィスコンティ家とスフォルツァ家のミラノ公国になりました。1395年にミラノ公の称号を授かった初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの時代には繁栄を極め、黄金時代を迎え、ヴィスコンティ家の支配は1447年まで続きました。
1450年には軍人フランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、ミラノの統治者としての地位を固めました。
今でも観光スポットになっているスフォルツェスコ城

1450年にミラノ公爵のフランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して建設しました。
スフォルツァ家は学芸の保護にも熱心でレオナルド・ダ・ビンチをミラノに迎えたのもこの時期。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれた「最後の晩餐」は1495年〜1498年に制作されました。

1500年〜:諸外国の支配を受けるミラノ

1500年、フランス軍がこの町を占領。
スフォルツァ家はフランス、スイス、オーストリアにあやつられながらも支配を続けましたが1535年にスフォルツァ家の血筋が途絶え、ミラノ公国は終焉しました。
1535~1706年にミラノを支配したスペイン人は、初期の頃に新しい壁を建てました。

現在、壁はなく、門のポルタロマーナだけが残っています。

地図の右端に見える箱のような建物はLazzarettoといい、当時流行っていたペストの感染者を街の壁の外に隔離した病院だそう。この中にベッドが敷き詰められていたみたいです。
(なんかこわいですね。)
lazzaretto

1815年、ロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリアの手に戻ったミラノは、イタリアの抵抗運動の中心地となり、1848年には短期間ですがオーストリア人を追放しました(「ミラノの5日間」と呼ばれます)。ちなみに、私の通っていた大学はその出来事から名前をとった広場、五日間広場(Piazza cinque giornate)にありました。
イタリアにはこのように歴史上の大事な出来事や人物から名前をとった広場や道がたくさんあります。

1859年、フランスの援助を受けたサルデーニャ王国が、ミラノをオーストリアから解放。

1861年:イタリア王国の一部に

1861年にミラノはイタリア王国の一部に編入され、引き続き発展しました。
前に記事にしたガレリア。イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名づけられたガレリアは1861年にデザインされました。

戦後:新たな発展、モードとデザインの発信地に

第二次世界大戦では、イタリアが降伏した1943年以降にドイツ軍及びサロ政権の統治下に入ったため、イギリス軍やアメリカ軍をはじめとした連合国軍による激しい爆撃を受けましたが、戦後急速に発展して復興をとげました。

そして現在のミラノができたのです。
mappa-strade

戦後の復興の一翼を担ったのは、モード。繊維業と出版業の発展に伴い、1972年からは「ミラノ・コレクション」もスタートしました。
こうしてミラノはイタリアにおけるモードの発信地となりました。

現在も変わらず、モードの中心地として、イタリアはもちろん、世界中に最新のトレンドを発信しています。また、デザインの祭典、家具の見本市「ミラノサローネ」や国際デザイン美術展「ミラノトリエンナーレ」なども開催されるデザインの街でもあります。

こういった歴史背景があり、じわじわとテリトリーが拡大されていったため蜘蛛の巣上の地図になったんですね。逆にトリノなんかはサヴォイア王家によって長い間安定した統治が続いていたため街は綺麗に整備されていて京都のように街全体が碁盤の目のようになっています。

観光などで初めての街を訪れる際はその街の歴史的背景を意識しながら歩くと、何気ない道や建物が旅をさらに興味深くしてくれますよね。

イタリア部ではこのミラノの発展の歴史を追いながら、スポットごとに動画を配信していく予定です!
メンバーの方々いかがでしょうか?

オンラインサロンイタリア部のメンバーはいつでも募集中です。

ではまた!

Aika